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敷居が高いと思われがちな演劇。でももっと気軽〜に楽しめますよ!そして演劇は社会生活にも役立つのです!

形見ができました

(※完全に私的な文章です。)

 

鹿児島の母方の祖父が危ないという連絡を先週の火曜日に受けました。


諸々のやらねばならぬことを片付けて、その週の予定を延ばしたり、キャンセルさせてもらったりして、翌日鹿児島に向かいました。

 

十数年前、父方の祖父がなくなった時、自分は東京にいました。葬儀には間に合ったものの、冷たくなっている祖父と最後に別れる時にわけもわからず泣きました。もっと会っておけば良かったと後悔しました。

 

だから今回は、せめて最後一緒にいたいと思い、かけつけました。

 

祖父は結構前からもうはっきりとは意思疎通できない寝たきりの状態でした。しゃべることも食べることもできず、胃ろうでの栄養補給でした。

 

自分が祖父のいる施設に着いたときには、連絡を受けた時よりは安定しているものの、胃ろうも体力の問題で行えないという状態。
鼻から酸素は入るようにしているけど、それ以外は特別なものはいれておらず、あとは、待つだけ、という感じでした。

 

喉からカーッと音をさせながらの息、ときどき顔や手が動くことが生きてる証でした。

 

祖母、祖母の妹、母、自分の4人で見守りました。
祖母と祖母の妹は高齢のため、夜中は家に帰り休みます。

自分と母で仮眠をとりつつ交代で見守りました。

 

看護師の方が時々様子を見にきます。
足の方が赤くなっていました。
チアノーゼ、つまり酸素が行き渡っていないんだそうです。
触ると確かに冷たくなってきています。

 

またしばらくして看護師さんが確認するとチアノーゼの範囲が広がっていました。
徐々に、生きている範囲が狭くなっている。
ここまでは生きてて、ここからは生きていない。


自分が来て2日目の夜、ふと思い立ち、母に「おじいちゃんが好きだった歌って何?」と聞き、スマホでその歌をかけました。

 

自分も昔、祖父と歌った記憶がある千昌夫さんの「北国の春」。それに三波春夫さんの「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」「船方さんよ」。

 

耳元にスマホを置いて聞かせると、祖父の息が深くなりました。口は動かないけど、たしかに聴こえていて、反応していました。


そして聞かせ終わると首をこちらに向け、目を見開きました。自分がかけつけてから一番はっきりした眼差しでした。
ここで一緒に好きな歌を聴けたのは、本当に良かった。スマホという文明の利器、わるくないよ。

 

その夜は持ちこたえ、朝になって母が仮眠と家事をするため一旦家に戻りました。

 

ところが、それから2時間後、祖父の血中酸素濃度が急激に下がりました。急いで母に連絡をしました。看護師も急いでとせかします。

 

自分は、、、気が気でなかったです。最期を看取るのが、一緒に寄り添った祖母でもなく、実の娘である母でもなく、自分なのか?それは申し訳無さすぎる。
懸命に「おじいちゃん!がんばって!」と声をかけました。
血中酸素濃度が激しく上下します。
息が細くなり、また少し戻す。その繰り返し。

今までの人生で一番長い10分間でした。


ようやく母、祖母、祖母の妹が施設に着きました。

 

みんなで声をかけます。声をかけると、少し息が深くなったり、血中酸素濃度が上がったりします。

 

なんだろう。
お医者さんはもう認識はしていないだろうと言ってるものの、やはり聴こえてるとしか思えない。

 

次第に息がまた戻ってきました。ただ明らかに昨日よりは弱い息をずっとしています。

 

ひとしきり言葉をかけた後、もうあとは自分からかける言葉は出し尽くした気がしました。あとは「ありがとう」に集約されるなと思いました。

息以外の反応も次第に少なくなりました。

 

3人を呼んでから約6時間後の夕方4時過ぎ、息が途切れない状態がしばらく続いていました。丸一日以上、歯みがきをしていなかったので、道具を持って洗面所に向かおうとしました。
と、そこへお医者さんが様子を見にきました。話を聞いておこうと思い、歯みがきにいくのをやめました。

 

お医者さんが話してる間、祖父を見ていました。

 

すると、祖父が大きく息を吸い、顎をあげ、目を少し開けて笑ったように見えました。
次の瞬間に息を大きく吐き、顎を沈めました。

そのあと、息をしなくなりました。

 

 

みんなで、声をかけましたが、多少まぶたや舌が動いたものの、再び息をすることはありませんでした。

お医者さんが、瞳孔と脈を確認して、時刻を告げました。


なんか信じられませんでした。
いや、もうすぐなくなるだろうというのはわかっていたけど、5分前に生きていたのに今はそうではないっていうのが、不思議な感覚でした。

 

見た目にはそれほど変わらない。
ただわずかな息をしているか、いないか、たったそれだけの違い。
なのに今は生きていない。

 

あっけなく、まるで電池が切れたかのようななくなり方でした。


その後、みんな、泣きました。

 

綺麗に整えられて、家におじいちゃんが戻った時には、すっかり冷たくなっていました。チアノーゼで冷えてた足よりもさらにずっと冷たくなっていて、ああ、なくなったんだなと思いました。

 

その後、葬儀社の方が来て、色々説明し、そこからは自分たちもまたバタバタで、翌々日、最期の送り出しまで終わりました。

 


自分は光栄なことに、弔辞を読ませてもらいました。最後だから、考えに考えた言葉でした。どう届いただろう。

 

祖母は亡くなってからの2日間も、事あるごとに祖父に寄り添い、声をかけていました。
母はこの2週間、看病で一番疲れていたはずなのに、葬儀の打ち合わせの中心になって、人前では疲れを見せずに動いていました。
夫婦すごい。親子すごい。

 

祖父の形見をもらいました。祖父から直接渡されたわけではないですが、祖母が持って行ってといった二つのものをもらいました。
大事にします。

 

そういえば、あのとき歯みがきにいってしまっていたら、その瞬間には立ち会えなかったんですよね。
たまたまお医者さんがきて、なんとなく聞いておこうと思って、待っていたおかげで最期の瞬間まで見届けることができた。
偶然かもしれないけど、何かの力が自分をそこに居させてくれたんだと思います。

 

最後に大きく息をして笑顔を見せたのは、「うん、よく生きた、もう満足じゃ」と言っていたんだと思います。

 

 

 

生きているということ。
生きていないということ。
この違いについて考えに考えた期間でした。

 

そして、生きている自分は、めいいっぱい生きなきゃと思いました。

 

今までもそんな言葉を誰かがいうのを聞いたことがあって、そりゃそうだと思ってました。
でも今回のことで、その重みがズンと響いてきました。

 

生きていることに感謝して、めいいっぱい生きよう。